
- 三河安城における製麺の歴史を教えてください。
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「和泉手延べ麺」のはじまりは、口承の記録によれば江戸時代、天明の飢饉の頃と伝えられています。当時この辺りは和泉村と呼ばれ、船着き場があり、各地の船がここから油ヶ淵を通って知多半島へ出て貿易をしていました。つまり、さまざまな人や文化がもたらされたんですね。飢饉に困窮した農家が、荒地でも育つ小麦の栽培と手延べの技術を修得したのが最初といわれています。
- 〈たつみ麺店〉創業の経緯とは?
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うちの祖先は平家の落武者の家で、この和泉の地に住みつくと、神本家十一軒屋敷という部落を作って農家を始めたと聞いています。第二次世界大戦までは製麺と農家を兼業していたそうです。当社初代である父は昭和50年に専業の製麺店〈たつみ麺店〉を創業しました。
当時、私は小学生でしたが、父の記憶といえば「どこでもしょっちゅう寝てしまう人」でしたね。その頃は作れば作るだけ売れる時代…今思えば、朝3時から夜遅くまで仕事していて、寝る隙などなかったんですよね。例えば、麺を天日干しするために作業場を往復する途中、立ったまま寝ているとか、晩ごはんの茶碗と箸を持ったまま寝ていたりしたのも覚えています。多い時代には 70 軒ほどあった製麺店も、現在では10軒弱になってしまいました。
- そんなお父さまの背中をみて家業を継ぐことに?
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いえいえ、当時私は電子機器部品の会社でサラリーマンをしていました。それこそ、製麺のプロセスくらいは知っていましたが、あんなつらい仕事を継ぎたいなんてまるで思いませんでしたね。朝3時に起きて、晩ごはんには寝落ちしているんですから(笑)そんな父が、ある時体調を崩して跡継ぎの話が持ち上がった。妻に相談したら「私なら継ぐね…」と。さらに、会社が休みの日に店番をしていると、なじみのお客さんが「なんであなたが継がないの!この麺をなくしちゃダメ!」とか仰る。それで腹を決めました。ところがいざ継いでみたら、今度は「親父には負けたくない…父を上回ってやろう」なんて気持が沸いてきたんです。そんなこと考えたせいでしょうかね、父は思いの外すぐに持ち直して、元気になって…結果、父 vs 息子の対決ですよ(笑)でも、ありがたいことに父は今も現役。それぞれにお互いの役割を考えながら一緒にやっています。
- お父さまの教えと新たなご自身の挑戦とは?
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最初、私が理解できたのは数値ばかりでした。でも父が教えてくるのは、すべて「こんな感じ…」なんです。つまり、毎日変化する様々な条件に応じて作り方変えるという勘や経験値、「職人技」を叩き込まれました。今はその基本の麺作りを踏まえつつ既存の枠にとらわれないものも作ってみようと思っています。例えば「手延べ純抹茶そうめん」などは、私が手がけて商品化にこぎつけましたが、完成までにどれだけ試作して捨てたことか…一般企業なら開発コストだけでクビですよ。他にも、麺にクラシック音楽聞かせてみたりもしました。結果、数値としてはコシが 1.2倍くらいになっていたんですけど、お得意様方に試食してもらったら違いを感じた人は、たったふたり…で、やめましたけど(笑)でも、やはりこの麺をみなさんに知ってもらえるよう挑戦はし続けたい。「半生戻し麺」も、よりおいしく、安全・安定的に生産できるように改良しています。