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《2020秋冬保存版》
サーラのおすすめ

Interview《巻頭特集》匠インタビュー

「サーラのおすすめ」巻頭特集である、匠インタビューをご紹介いたします。

おいしいものを作るために
“当たり前”のことを続けていたら、
それが“特別”なことになっていた。

その昔、城下町と川湊の地として栄えた東海道34番目の宿場町「吉田宿」。現在の豊橋市にあたるこの地で、文政10年(1827年)創業の〈ヤマサちくわ〉は、“豊橋のちくわ”を世に知らしめ、この町の歴史とともに歩んできた、まさに地元の顔。今回はその七代目、佐藤元英さんにお話をうかがいました。

昔、今川義元公の時代、この吉田宿(豊橋)で魚の商いができるのは、安海熊野社の境内のみと定められていた。その辺りは魚町と呼ばれ、江戸時代には吉田宿の半数近い人口がそこに集中する商業の中心地となった。

創業と販路の拡大。

実は、戦災で過去帳などの記録がすべて焼けてしまいわからないことも多いのですが、今から約200年前、当家の祖先もその魚町で魚の卸しなどをやっていたようです。初代・佐藤善作は、父親から“どんな商売でもいいから自ら起業せよ”という教えのもと育ったらしく、四国の金比羅様へお参りした際、ご当地名物のちくわを食べてその味に感激して、これは商売になる!と思ったんですね。地元に戻ってさっそく製造に取りかかって〈ヤマサちくわ〉が創業されました。

すると、東海道を往来する人々の間で、吉田宿のちくわがおいしいと評判に。そこで次は、三河湾の塩を信州まで運ぶ陸路「塩の道」を利用して商いを拡大。塩の箱にちくわを入れて輸送すれば、塩の力で水分が抜けて腐ることなく、ちょうど到着する頃にはカチカチのフリーズドライ状態になるんです。海がない土地で魚肉は貴重な食材ですから。それを水に入れてふやかし、煮炊きして食べたそうです。また、城下には川湊があって、その水路には伊勢へ行き来する船が出入りしていました。つまり、城下町、塩の道、川湊という3つの条件が揃って、うちのちくわが広まっていったんです。

ちくわのスタンダードへ。

明治に入ると、当社で技術を学んだ弟子たちが、贈答用のちくわや、家庭用のちくわ、東京などへの出荷専門店など、さまざまな業態別に分業のような形で店を構え、多い時期には市内に60~70店ものちくわ屋ができました。そして昭和2年、豊橋に鉄道が開通して駅のホームで立ち売りを開始すると、それが人気を呼び、“豊橋のちくわ”は全国的に有名になりました。ちなみにみなさん「ちくわ」といえば両端が白くて真ん中がしわしわでこげ目がついたものを想像しませんか? 本来、そのデザインは当社が元祖。つまり、“豊橋のちくわ”がちくわという食品のスタンダードになるほど、一世を風靡したという証しですね。

ところが、そんな時代もつかの間。戦災で町全体が焼失し、豊橋のちくわ屋は壊滅的なダメージを受けました。そのとき私の祖父にあたる五代目は、戦後の焼け野原にいち早く工場を再建。ちくわの組合や業者に掛け合って組織をひとつにまとめあげると、魚の仕入れもうちが一括してやることで原料を行きわたらせ、とにかく地元で商売が成り立つように尽力した。いわゆる“中興の祖”ともいうべきすごい人物です。そして、その工場が魚町本店のある所です。

“おいしい”にこだわった必然。

〈ヤマサちくわ〉に入社すると、まず魚をさばくための出刃包丁が社員全員に渡される。全員が素材である生の魚に触れることで魚を知り、その日ごとの魚の状態がわかるようになり、それが追々すり身の配合や、素材の特性を生かした商品開発につながっていくという。

とにかく“おいしいものを作る”ということが大前提ですよ。その第一のこだわりは原料となる魚。当社くらいの生産規模なら、鮮魚の加工は専門の下請けがやって、練り物の製造からスタートするのが一般的。いまだに鮮魚をさばく段階からすべて自社内でやっているところは、全国的にみてもかなり稀なんじゃないかな。水揚げが多い時期には、通常は包丁なんて握らない社員まで総出で魚をさばいているなんてこともありますよ。石臼ですって完成したすり身は、マイナス60度で一気に冷凍し、マイナス30度で最大1年まで保管・使用します。

焼き場のそばは室温40度以上にもなるという。工場に入って驚くのは職人さんの多さ。聞けば、石臼ですり身を作る工程から、焼成、梱包に到るまでの工程で、工場内には常時100名ほどの職人がいるとのこと。別の一角では、定番人気の「半月」という商品を完全な手作業で製造中。「ツケ出刃」という刃先の切れない包丁で成型したものを、大きなすくい網を操って大鍋で茹であげる。ツケ出刃の作業を任されているのは 20~30年のベテラン職人のみという高度な技である。

うちの工場は、職人がいるところに機械が置かれている感覚ですね。昔ながらの石臼ですり身を作るのも、昔はどこでもやってたはずなんだけど。今、この規模の工場では他にはないんじゃないかな。人が手作業で臼に原料を入れて、完成したら手で取り出す。塩加減ひとつだってベテランの職人の経験と勘、五感の記憶が頼りです。もちろん反対意見も出てきますよ。日持ちがしないとか、作り方が難しいとか、生産量も限られるし。でも、おいしくないものは作りたくない…と、当たり前のことをやめずにそのまま残してきたら、今の時代、それはもうそれは当たり前じゃなくなっていただけなんです。気づいたら、よそはみんな機械でコストパフォーマンスのいいものを作っていた(笑)。でもたくさん作りすぎてもしょうがないでしょう。

おいしく食べてもらうには、日々売り切れる量で作らないと。「半月」なんて手作業でしかできないものも毎日作っているけれど、当然、数は作れないのでスーパーなどへの大量の卸しも無理。直販店だけで扱っています。

取材当日は、偶然にも月にたった1日の「旬のちくわ」の製造日。原則、毎月第3金曜日に作り、翌土日で販売。その数300本程度、中元歳暮の時期でも1,000本くらいしか製造しないプレミアムなちくわ。

わが社のすり身は、その日に獲れた魚で作るのが基本です。だから、決まった魚じゃないと作れないということもない。今日は工場で「いさき」のちくわを作っていたでしょう。あれなんて、月1度きり、数百本の製造で、毎年この月はこれって決まっているわけじゃないんです。まさにその日の魚次第で、今しか食べられないおいしさを作っています。

七代目としての継承と新たな時代。

私は自宅の 1 階が店舗、遊び相手は社員、おやつにも食卓にも毎日ちくわ…そんな環境で育ちました。工場もよく見に行っていたし、業務上の打合せなども、普段から生活の一部として聞こえていました。何より、祖母からは、跡取りとなるべく“洗脳教育”されていた気さえします(笑)。そんな私が、今、社員たちによく言うのは、「何とか風は作らない」ということ。なぜかって、本物が一番おいしいんですから。時代とともに味覚やニーズが変化していくのにつれて、新たなおいしさの創造は必要です。でも、それは基本となる本物あってこその変化・改革なんです。それがなくなったら、何屋だかわからなくなってしまうでしょう。昨年からニューヨークへ販路を広げました。世界的な和食ブームも来ていますし、まずはやってみよう!と、こちらで作って冷凍で輸送しています。実は、すでに海外でもそれらしいものは出回っているようですが、それは、ちくわ屋から見たら、ただの“ちくわ風”です。本物の「ちくわ」のおいしさを理解してもらいたいんです。

三河の古い方言で“げんびー”という言葉がある。もともとは、食にいやしいというような意味で使われていたが、つまりは“食いしん坊”ということ。

僕は三河弁でいうところの「げんびー」。だから、和洋を問わず食べ歩きも好きで、春夏秋冬それぞれのおいしいものと出会うと、次々アイディアが浮かんできてしまう。その結果、ものすごく商品数が増えてしまって、工場も店舗も大変なことにさせてしまっていますが、今回の詰合せにも入っている「野菜ソフト」も、25年くらい前に私が考案したロングセラー。地元ではお弁当の定番として毎日4〜5000パックは売れるヒット商品ですが、これは海外でも大人気でした。やっぱりおいしいものは世界共通、わかってもらえるんですね。

今年は NHK 連続テレビ小説「エール」の地元として豊橋が注目されていますが、主人公のモデル・古関裕而さんは楽器を使わないでも作曲ができるでしょう。でも、僕だって、コレとコレを合わせたらこんなおいしいものになる…というのなら、頭の中だけで作れますよ。音楽はできないけど「味」ならね!それと、関内家のちくわのおかずが、まさに、わが家の食卓そのものだったのには驚きでしたね(笑)。

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