- 弁天島山本亭について
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昭和5年頃、祖父が舞阪駅前に寿司やうなぎ料理の店〈山本亭〉を創業、父は次男坊だったので暖簾分けという形で〈弁天島山本亭〉を立ちあげました。
現在、本家の山本亭はすでに閉店しましたが、弁天島は兄が二代目として店主を務め、私も兄を支えながら兄弟で暖簾を守っています。
- 人生の分岐点はオーストラリア
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兄弟二人とも物心ついた頃から父の背中を見て育ち、その意志を継ぐべく京都の料亭で修行しました。当初から店は兄が継ぐと思っていたので、私はさらに20代半ばの4年間、オーストラリアの和食店で経験を積みました。
オーストラリアは移民の国なので、各国の料理人が本場の味と技術をそのまま持ち込んできます。各国の本物を見たり味わったりできる。その経験は今でもすごく生きています。例えば、日本料理なのに低温調理やエスプーマなどヨーロッパの調理技術を使ってみたり。和食という枠でカテゴライズせず、単純においしいものを作りたいですから。また、料理以外にも、何かに挑戦するバイタリティや、広い視野を持つということなど、海外生活で得たものが自分の大きな自信になりました。実は、妻との出会いもオーストラリア滞在中のことで、私の人生においてなくてはならない4年間でした。
- 料理人としての次なる挑戦
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帰国した頃、兄はすでに〈弁天島山本亭〉の二代目を継いでいて、私は姉妹店の〈太助〉を任されることになりました。おかげさまで多くのお客さまに愛していただいた「太助」ですが、さまざまな事情で2020年に閉店。店舗を〈弁天島山本亭〉ひとつに絞ることになりました。
ちょうどその頃、私ごとですが、広汎性発達障害(ADHD)の次男の就職について考えなければならない時期にさしかかっていたんです。それでいろいろ調べてみたところ、まず、障がい者の雇用先の少なさに唖然としました。ただでさえ個々に難しい特性を持った子たちなのに、就職先を選ぶどころかその枠自体がまったく足りていないんです。彼らだって普通の学生さんと同じく、時期が来たら次々社会に出て行かなければならないし、仕事としてできることもたくさんあるのに受け皿がない。
ならば、この料理店としての環境と料理人としてのキャリアをベースにできることはないか。息子のための職場を用意するということではなく、息子をきっかけに現実を目の当たりにして、自分の人生のビジョン、これからやるべきことを見つけたという感じでした。